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藤井 健仁 近況

天覧美術 レビューによせて

https://bijutsutecho.com/magazine/review/22373#.X0BVAxB4dZY.twitter


 バッサリ斬られているとの事で、先日まで参加していたグループ展「天覧美術」のレビュー(美術手帖 8月号 月評 清水穣氏)を拝読しましたが、残念ながら批評のスペックを満たさない稿であったので内容について仔細論じること叶いませんが、そこから思ったことをいくつか。



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 確たる論拠も示さず、作品への考証もないままの、得意げなバッサリ斬り捨てポーズ。これでは展にも私にも届かない。ただ未分化な感情が伝わってくるだけだ。

そのポーズはおそらく、書き手の背後に控える信奉者たちへの内々のサーヴィスであろう。それは昨今のにわか右翼による、賛同者からの「いいね」欲しさのSNSでの不正確で内向きな断定的書き込みと全く同じ構造である。




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私に対しての書き手による親切なモチーフ提案は、確かに重箱の隅では評価されるアイデアなのかもしれない。だが、私のような、一から十まで造る、昔ながらの造り手にとっては真っ先にオミットされる類のアイデアである。アイデアが、制作に付帯する膨大な時間と労働による負荷にもちこたえられないものだからだ。そうした提案は、モチーフ選択でしか個別性を主張できない「作らない」方向性の作家に対して行う方が効果的であろう。


悪意は隠せば隠すほど強力に効くべきーという考えには一定同意できる。が、書き手の謳う悪意は存外これ見よがし且つ表層的であり、いわば回収可能な想定内の悪意である。

お馴染みの微笑を湛えた首だけの天皇。

これをある一方の仮象とせずに成立させる為には、悪意なのか愛なのか自分でも判別出来ぬ領域に進入せねばならなかった。悪意と愛を同量とする作業の中で、もし期せずして、ほんの僅かでも悪意が上回ることがあれば、それは本物の悪意であろうと考えた。

だが記号による連想に慣れてしまった眼にはその悪意の読み取りは難しいかもしれない。

そもそも古い意味での彫刻制作は、考え、イメージと物質物理との調停によって成され、形態面からしても右から見ても左から見ても一つの連続体として整合性がなくてはならず、いわば両義性を自ずと内蔵したものであるから、位相は違えど、作品を一面的な指向の仮象とするのは何処か、作品や労働に対しての冒瀆とさえ思える部分がある。



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現況の中で僅かなりともリカバリーを目論んだ小さな展を冷笑した挙句、自嘲気味の文末。無力を認めつつこうした高踏に逃げ込む者こそが、現在天皇制を利己的に運用する層にとって都合のよい存在なのかもしれない。

「人間宣言」は死者達が生命によって担保しようとしたものまでも無効化し、

(国体護持の為には陛下自ら旗艦に座乗され最期の決戦の際には艦と運命を共にしていただく他はない、と敗戰間近、近衛文麿は上奏した。この発言での国体とは天皇自身の生命ではなく、戦死者及び国民の想念の総体を指すと思われる。)現在に至るまで日本語の意味と重さを奪ったが、それに留まらず、碩学とされる方の意識にまで侵食しているようだ。




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by fujiibph | 2020-07-18 23:45
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