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藤井 健仁 近況

記号の肉化、《鉄面皮/形代かえし》

TARO賞の作家Ⅱ図録 より

記号の肉化、《鉄面皮/形代かえし》

 近年、造りたいと思えるキャラクターが少なくなってきた。時局からすればむしろ以前よりも「作れる」対象は増加しているにも関わらず、顔が何かを顕す時代は既に終わったのかもしれないと考える程に。それでもモデルとして選択した幾人かでさえも、顔と為した事柄の間に不自然なほど夾雑物が少ないせいか、その結合も弱く感じられる。改めて普遍に還元するまでもなく、既に誰の顔ででもあるかのような顔立ちをしているのだ。だがその顔の持ち主がもたらす惨禍は以前とは比較にならないものになりつつある。だがそこに「凡庸な悪」を持ち出しても仕方が無い。それではヒ素の入った小さなカレー鍋と崩壊した原子力発電所を混同し、極小と極大を相対化してしまう事になりかねない。


 形代(かたしろ)とは藁人形や紙人形を用い、人形に加えた危害を対象人物上に再現させる古来からの呪法であるが、かといってこの制作が私によるモデル達への呪いなのかといえば、そうではない。※5 彼ら自身が紙人形であり、対象は彼らを記号として意識の中に抱え持つ私たち全員である。偶然にそうしたフォーマットが自ずと形成されてしまうのか、それともこのようなノウハウをもつ層が存在するのかは分からない。

 ある町で起こった猟奇事件実行者の顔が全国の液晶画面に表示される時、程度の多寡はありこそすれ、その顔の持ち主が行った所行を同時に1億3千万人が脳裏に描き、想念を蠢動させる。それはその事件自体とは異なる、無意識の位相で起きる全国的な災厄となる。特定個人の顔が、そのまま全国共通の、特定の想念を呼び出すインデックスとなったのだ。そして顔が記号として繰り返し送受されて行く中で、行為に至る迄の細々とした機微や情念は平滑化され、1億3千万との共通因子が残留し、私たちに等しく寄り添ってくる。そこに簡単なアナウンスで、同時に隆起した想念に方向付けし、現実の災厄とすることも、その瞬間には容易な事となりうる。(そこに最初から平滑化された顔が現れて来たのが不自然なのだ。切っ掛けが現実の事象でなくても一たび蠢動が始まればそれは現実の力になる。)

 似ている、似ていないと云う、この作品に対する判定も、私を含めほとんどがモデルを実見した事のないもの同士でのやり取りである。ならばその判定は実際の個人ではなく、それぞれの裡にある記号に対しての想念を基準としたものである。
 その顔は確かに記号でしかない。だが地表の水蒸気が雨雲となるように私たち個々の想念が凝集し束なったものこそが記号の実体であり、それは蠢動が繰り返される程、強度と厚みを増して行く。本来は雑多で来歴も異なるバラバラな個々の想念が連結したものであって、ドライでも透明でも、ましてやバーチャルでもない。

 記号化した存在を「よく見て、描写」することで改めて凹凸を穿ち、叩き出し、削ぎ落とされたかもしれない機微を憶測によってでも復元してゆく、手業による強引な「肉化」は、依然そのまま記号のトレースであったとしてもその多面性を留保させ、束ねられない種類の個人的な情念をもそれぞれに喚起させうるかもしれず、想念の束化、記号の形代化ともいえる事態は僅かにでも遠ざけることができるかもしれない。巧拙はともかくとして記号に寄り添う努力を十分にした上で、それでも「似ていない」と言われるなら、私はどこか労働を認められた気分になる。 

 モデルとなった人物たちの幾人かは、死が訪れる迄の時間に価値を偏らせたばかりに様々な齟齬や虚偽を造り出し、飽和量を超えてそれらを行使したがために死が訪れる迄の時間の確保さえ危ぶまれる程の重大な事態を招いた。近い将来、彼らが思惑通りの生を全うし幽界に向かう途中、仮に私が用意しておいた、自らを模した像を魂の依代として見つけ出したにしても、そこではそれまでのような安寧も充足も継続されない。なにしろ彫刻とは、死んだ後にもそのまま世界は続くとする前提でつくられているものだから。そして生前、さんざん多勢に対し吹聴してきた「死は終わりではない」という現実を諦めに導くためのアナウンスを、今度は連中が聞く事になる。

(※註5 fig[ ] 《寝正日》2008年の作品。 2011年、結果的にモデルが作品をトレースしてしまった事例。勿論偶然である。)
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by fujiibph | 2014-12-23 18:13
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