藤井 健仁 近況

「溶ける魚・続きの現実」に寄せたコメント

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1. 何故今シュルレアリスムを意識しなくてはならないのか。モダンアートの一時代として記憶され、現在「シュール」と名を変えて日常会話のボキャブラリーに回収されたものではある。けれど今、シュルレアリスムが問題とした無意識の領域は当時とは比較にならない程増大しており、その度合いは諸々の犯罪の動機、災害への対応、戦争の名目に看て取る事が出来る。そもそもシュルレアリスム運動の目的の一つが無意識領域からの現実の変革であるとするならば、それが既に残念な形で達成された世界に私たちは生きている。今シュルレアリスムを意識するということは、復古や回帰ではなく、ましてや絵面のトレースでもなく、こうしたシュルレアリスムを追い越してしまった現在からその過去のムーブメントを振り返り、その当時に形成されながらも認識されなかった側面を発見する事であるのかもしれない。たとえば、太古より細菌として存在していたが近代化等期せずして環境条件が揃った時、はじめてヒトに対して猛威を揮い始めるレトロウイルスのようなものとして。

2. 元来単一のものである幅の広いグラデーションを持つ意識領域が、意識と無意識という二項対立に分離されたことはさして以前のことではない。その元来のものからナイーブな性格が色濃い領域を切り取り、無意識と云う得体の知れない不確かかつ大雑把な呼び名とすることで、以前まではそれと地域ごとに結びついていた歴史や事物から切断し、国単位で集合化させ、簡素ないくつかの矢印を用いて何がしかの目的の為に収束させる事が可能になった。その最初の具体例が第二次世界大戦だったとはいえないだろうか。だとすればシュルレアリストが啓蒙するまでもなく当時の世界は既に十分すぎる程、無意識が解放されていたのかもしれない。むしろその解放のべクトルが向かう先に対しての危機意識の顕われこそがシュルレアリスム運動だったのではないかとも思える。

自作について
 鉄で人形を.......
 乱暴な言い方をすれば、鉄を素材として用いて物品の制作を試みる際、鉄が ヒトの歴史と生活環境に対して現在今ある状態となるよう働きかけてきたものと同じものが、その制作する個人の意識にも働きかける。そして人形と云う物を制作しようとする場合、自ずとそのルーツである呪物、神像等が機能し得た過去へと制作者の意識は、部分的にではあるかもしれないが、遡る。 「鉄の時代」の台頭と入れ替りに後退していったのが、「人形」が共同体の中 で機能し得た世界であるから、この制作はヒトの歴史の正方向と逆方向、双方のベクトルに引き裂かれており、なおかつそれを構成する素材とモチーフである「鉄」と「人形」という、お互いにとってそれぞれの背後にある言語イメージからはかけ離れた対極的な要素を持つ、マッチョな鍛造労働に拠るやわらかな内向的愛玩物の製造作業でもある。
 だがその奇怪な条件下で制作された「鉄の人形」が、「鉄」+「人形」という要素の組み合わせの呈示を超え、ある質を持った存在として自立出来るのであれば、それはまぎれもなくシュルレアリスムに於ける転置、しかも現実空間の中で物質によって実現されるデペイズマンとも云えるものなのだ。
City_net Asia 2007 (ソウル市立美術館) カタログ収録 作家ステイトメント

藤井健仁
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by fujiibph | 2013-01-13 04:45
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