藤井 健仁 近況

像形人間-for humans

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像形人間-for humans

出品作家:
木村了子(日本画+フィギュア)
関本幸治(写真+立体)
藤井健仁(彫刻+ドローイング)
松山賢(油画+彫刻)



会期:2015年3月31日(火)~4月19日(日) 12時~19時 月休

みうらじろうギャラリー
103-0011 東京都中央区日本橋大伝馬町2-5 石倉ビル4階
電話 03-6661-7687
FAX 03-6661-7690
E-Mail : info@jiromiuragallery.com
東京都公安委員会 第301041206877号
http://jiromiuragallery.com/

オープニングレセプション 2015年3月31日(火) 19時~21時
クロージングトークショウ 2015年4月19日(日) 19時~20時30分
「ヒトかモノか?-人をつくるということ」
参加費1,000円(1ドリンク付)要予約




像形人間 for humans    木村了子

 「人間」を通じて何を表現したいのか?ただ「人」の「形」を追うのでなく、その精神性や社会背景、あるいは人間性を排除した物質としての表現など、さまざまな視点で「人間」を探求する4人の現代美術家のグループ展を開催いたします。
 伝統的な日本画の技法で「美人画」という古くから親しまれたカテゴリーの逆転的発想により、現代美男子(俗称イケメン)像を、女性目線でファンタジックに描き続ける木村了子。
 被写体となる人物や背景など仮想現実空間を自ら制作し、新たな次元として写真作品で表現。人の心の光と影をテーマに、虚と実の境の微妙なところにあるものを表出しようとする関本幸治。
 鉄板を叩き曲げ形作る鍛鉄という技法で、「人形」としての少女像、また犯罪者など実在する人物の顔と、二種の異なる人物像を彫刻の歴史をふまえつつ、独自の視点で制作する藤井健仁。  絵画とはキャンバスに置かれた絵具の集積の結果にすぎないと、さまざまなモチーフを油彩にてコンセプチュアルに捉えつつも、並々ならぬ存在感を放つグラビア的美女を描き続ける松山賢。  本展では各自の人間像作品他、制作から派生した立体作品やドローイングなども交え展示いたします。人間像を創り表現することの意味や面白さを、作品から感じていただければ幸いです。
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# by fujiibph | 2015-03-20 23:53

アトリエサード 別冊TH ExtrART file.03

アトリエサード「別冊TH ExtrART file.03〜闇照らす幻想に、いざなわれて」にケロッピー前田氏による「TARO賞の作家Ⅱ」のレポートが掲載されています。拙作は6頁に亘って紹介して頂きました。12月中旬発売です。

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http://athird.cart.fc2.com/ca7/117/p-r7-s/
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# by fujiibph | 2014-12-28 16:19

記号の肉化、《鉄面皮/形代かえし》

TARO賞の作家Ⅱ図録 より

記号の肉化、《鉄面皮/形代かえし》

 近年、造りたいと思えるキャラクターが少なくなってきた。時局からすればむしろ以前よりも「作れる」対象は増加しているにも関わらず、顔が何かを顕す時代は既に終わったのかもしれないと考える程に。それでもモデルとして選択した幾人かでさえも、顔と為した事柄の間に不自然なほど夾雑物が少ないせいか、その結合も弱く感じられる。改めて普遍に還元するまでもなく、既に誰の顔ででもあるかのような顔立ちをしているのだ。だがその顔の持ち主がもたらす惨禍は以前とは比較にならないものになりつつある。だがそこに「凡庸な悪」を持ち出しても仕方が無い。それではヒ素の入った小さなカレー鍋と崩壊した原子力発電所を混同し、極小と極大を相対化してしまう事になりかねない。


 形代(かたしろ)とは藁人形や紙人形を用い、人形に加えた危害を対象人物上に再現させる古来からの呪法であるが、かといってこの制作が私によるモデル達への呪いなのかといえば、そうではない。※5 彼ら自身が紙人形であり、対象は彼らを記号として意識の中に抱え持つ私たち全員である。偶然にそうしたフォーマットが自ずと形成されてしまうのか、それともこのようなノウハウをもつ層が存在するのかは分からない。

 ある町で起こった猟奇事件実行者の顔が全国の液晶画面に表示される時、程度の多寡はありこそすれ、その顔の持ち主が行った所行を同時に1億3千万人が脳裏に描き、想念を蠢動させる。それはその事件自体とは異なる、無意識の位相で起きる全国的な災厄となる。特定個人の顔が、そのまま全国共通の、特定の想念を呼び出すインデックスとなったのだ。そして顔が記号として繰り返し送受されて行く中で、行為に至る迄の細々とした機微や情念は平滑化され、1億3千万との共通因子が残留し、私たちに等しく寄り添ってくる。そこに簡単なアナウンスで、同時に隆起した想念に方向付けし、現実の災厄とすることも、その瞬間には容易な事となりうる。(そこに最初から平滑化された顔が現れて来たのが不自然なのだ。切っ掛けが現実の事象でなくても一たび蠢動が始まればそれは現実の力になる。)

 似ている、似ていないと云う、この作品に対する判定も、私を含めほとんどがモデルを実見した事のないもの同士でのやり取りである。ならばその判定は実際の個人ではなく、それぞれの裡にある記号に対しての想念を基準としたものである。
 その顔は確かに記号でしかない。だが地表の水蒸気が雨雲となるように私たち個々の想念が凝集し束なったものこそが記号の実体であり、それは蠢動が繰り返される程、強度と厚みを増して行く。本来は雑多で来歴も異なるバラバラな個々の想念が連結したものであって、ドライでも透明でも、ましてやバーチャルでもない。

 記号化した存在を「よく見て、描写」することで改めて凹凸を穿ち、叩き出し、削ぎ落とされたかもしれない機微を憶測によってでも復元してゆく、手業による強引な「肉化」は、依然そのまま記号のトレースであったとしてもその多面性を留保させ、束ねられない種類の個人的な情念をもそれぞれに喚起させうるかもしれず、想念の束化、記号の形代化ともいえる事態は僅かにでも遠ざけることができるかもしれない。巧拙はともかくとして記号に寄り添う努力を十分にした上で、それでも「似ていない」と言われるなら、私はどこか労働を認められた気分になる。 

 モデルとなった人物たちの幾人かは、死が訪れる迄の時間に価値を偏らせたばかりに様々な齟齬や虚偽を造り出し、飽和量を超えてそれらを行使したがために死が訪れる迄の時間の確保さえ危ぶまれる程の重大な事態を招いた。近い将来、彼らが思惑通りの生を全うし幽界に向かう途中、仮に私が用意しておいた、自らを模した像を魂の依代として見つけ出したにしても、そこではそれまでのような安寧も充足も継続されない。なにしろ彫刻とは、死んだ後にもそのまま世界は続くとする前提でつくられているものだから。そして生前、さんざん多勢に対し吹聴してきた「死は終わりではない」という現実を諦めに導くためのアナウンスを、今度は連中が聞く事になる。

(※註5 fig[ ] 《寝正日》2008年の作品。 2011年、結果的にモデルが作品をトレースしてしまった事例。勿論偶然である。)
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# by fujiibph | 2014-12-23 18:13

図録収録コメント冒頭部

二重の対極  

 対極的とも言える、《鉄面皮》、《New Personification》という二つの作品シリーズを、鉄を共通した素材として用い、並行して制作してきた。実在する著名人の顔面を形づくる《鉄面皮》は斬首像とも受け取れる形態(※註1)を持ち、《New Personification》は人形制作を範としたものであるため、前者は暴力的でハード、後者は親和的でマイルドと云った印象を抱かれるかもしれない。けれどもその二つの印象イメージそのままが対極関係となっている、といった図式に留まるものではない。それではまだ半分しか光があたっていないのだ。
 《鉄面皮》では「この様な彫刻を造る為には殺人を可能にする量とほぼ同じ労働量を必要とする(※註2)」といった殺意の形象化として始まりながらも、長時間に及ぶ対象への凝視と労働のさなか、対象の風貌の中に制作者自身の断片を発見し、彼我を隔てる境も次第に曖昧になっていく。最終的には(対象によっては憎悪すべき)その来歴行状にもかかわらず愛着さえも芽生えることになり、ストレートな断罪や害意とは異なったものとして完成する。
 そして鉄で人形を造作する《New Personification》おいては、兵器が高度化し都市が増殖する「鉄の時代」の台頭と入れ替りに後退していったのが「人形」が神像呪物などとして共同体の中で機能し得た世界であるから、この制作はヒトの歴史の正方向と逆方向、双方のベクトルに引き裂かれており、鉄と人形という新旧社会基底材の交代劇が、稚雅な人形のクオリティの中で繰り返されている。これはかなりハードなシチュエーションといえるかもしれない。
 《鉄面皮》、《New Personification》、双方ともに、その初見の印象はそのままに真逆の内実を示す、対極性を内蔵するものであり、その上で「-のまま+、+のまま-」であるこの二つの制作を並行して行う事は、より大きな、二重の対極による循環を産み出す可能性がある。

※註1 fig[ ]《彫刻刑 鉄面皮プラス》2004年  
※註2 個展「彫刻刑 鉄面皮」ステイトメント、2004年

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# by fujiibph | 2014-11-14 21:16

麿 赤兒さんの記事

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日本経済新聞・夕刊『こころの玉手箱』

2011年1月14日付 本文& 紹介文


<“縄文人”から想像力刺激>


美術は全般的に好きだが、収集家というわけではない。そんな僕が、珍しく気に入って購入したのが、この、藤井健仁さんの鉄を使った彫刻である。



勝手に「ムー」と名付けている。ムー大陸のように、太古の時代に、ひょっとするとあったかもしれない不思議な生き物のように感じるからだ。原子の人、縄文人、とも思える。ムーを眺めていると、いろいろな想念がわいてくる。原始というより、近未来の人のように見える時もある。



6年くらい前、飲み屋で写真家の荒木経惟さんに、藤井さんを紹介されたのだった。展覧会などを見て、気に入った。珍しく、作品をそばに置いておきたいと思った。



藤井さんは愛知県に住んでいる。その作品には、政治家など有名人の顔をかたどった「鉄面皮」のシリーズもあり、ムーのような作品がすべてではない。でも僕は、この不思議な生物のシリーズが好みだ。ムーのほかにも、少女像2体を持っている。1体はセーラー服を着ていて、これはビクトリア、もう1体は水着で、マリアと呼んでいる。



少女の彫刻は、世界を斜めから見ているような、近代的な屈折を持った人間のように見える。でもムーは、もっと無邪気な感じだ。否、ちょっとは邪気を抱いているかも。水木しげるさんではないが、妖怪のようにも思える。というより両生類か?陸と水の際のあたりに暮らしていそうだな。このように、ムーにはいつも想像力を刺激される。僕の舞踏も、古代の人、原始の人間への遡及を目指して創ることが多いから、時間を超えた存在と感じるムーと波長が合うかもしれない。



普段は自宅の棚にちょこんと置いているムーに、時折話しかける。「お前、何考えてるの?」。ムーは「ただ、ト、ト、ト、と歩いているのです」と答える。「これからどうする?どこかに身売りでもする?」「嫌です」。不気味な光景かもしれないが、そんな対話の中から創作のヒントを得ることもあるのだ。


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まろ・あかじ 1943年生まれ。奈良県出身。劇団「状況劇場」を経て72年に「大駱駝艦」を設立。舞踏の先駆的団体として国内外で評価される。3月17日~21日に東京・瀬田がyパブリックシアターで新作公演。俳優としても活躍する。 



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# by fujiibph | 2014-10-29 17:24